NEWS

創造源流 ”「つくる人」の原動力ってどこから来るんだろう。きっとそこには、源流があるはず”
植木 公一 デザイナー 〜前編〜
Profile / KOHICHI UEKI
栃木県生まれ。古着店店主、イベント運営会社の企画担当、アパレル企業の営業など、様々な職業経験を経たのち、自身のオリジナルブランド「Porto di luna」を立ちあげる。2011年8月、それらの洋服を取り扱うブランドショップ「Porto Ponpone」を東京・西荻窪に開店。自身の原点でもあるイタリア・アマルフィの街からインスピレーションを得、「南欧の港町に暮らす人々の普段着、そして、旅先でトランクから出して、くしゃくしゃのまま着る服」をコンセプトに、長く日常的に愛される服を生み出し続けている。
▶Porto Ponpone公式twitterアカウント
ホームページも電話番号もなく、営業日はまちまちで閉店の日も多い。
そんな、型やぶりな洋服店の売り上げは、驚くことに右肩上がりだという。
このお店のオーナーでもありデザイナーでもある、植木さんという人物はどんな人なのだろう。
彼は、何を思い、どのようにして、このようなスタイルのお店を開くにいたったのだろうか―。

インタビュー:坂口直
不思議な洋服店
西荻窪に、ちょっと不思議な洋服店がある。

ホームページもなければ、電話番号もない。
不定休であるお店の営業状況を確認するには、唯一公開されているtwitterを見るしか術がない。しかも、毎日どころか、週に数日しか開いていない。ホームページやSNSの運用など、普通のお店ならどこもやっているようなことを全て無視し、完全に時代に逆行している。それでいて、売れ行きはうなぎ昇りだという。
それはまるで、今の世の中に対して挑戦状を叩きつけているようでもある。
その店の名は、「Porto Ponpone(ポルト・ポンポーネ)」。
店主は何を思い、このスタイルにたどり着いたのだろうか。

西荻窪の駅を降り、昔ながらの雰囲気を残す商店街をどこまでも歩いていくと、周囲のお店とはちょっと様子の違う、小さな白壁のお店が現れる。
ここが「Porto Ponpone」である。
軒先には、赤レンガやワインボトル、サボテンなどが品良く並べられており、店の前にとめられた真っ赤な自転車が、その光景を絵はがきのように仕立て上げるのに一役買っている。ドアの向こうには革靴と数点の洋服が並んでいるのが見える。白熱灯のオレンジ色の光が、それらをふんわりと包み込んでいた。
その空間だけが、ヨーロッパの街角にトリップしたかのようにも見えた。

「あ、いらっしゃい」

店の中から満面の笑みで現れたのは、そんなお洒落な光景にしっくりと馴染んでしまう風貌の男性だった。
彼こそが、この洋服店「Porto Ponpone」の店主であり、店内に飾られた洋服のオリジナルブランド「Porto di luna(ポルト・ディ・ルーナ)」のデザインから製作までをこなす、デザイナー・植木公一さんだ。

Porto Ponpone 外観 Porto Ponpone 外観
バイク少年の心の内
植木さんの出身は、栃木県の高根沢町。
宇都宮の少し北側にあり、田園風景の広がるのどかな町である。

幼いころ、周囲の大人たちからはよく、礼儀正しくてきちんとした子だと言われていた。
そんな品行方正だった小学生時代とはうって代わって、中学校に上がった頃には、バイクを乗り回すちょいワル少年だったという。

「とはいえ、暴走行為とかそういうのはあんまり好きじゃなかったから、友達と夜中に田んぼの真ん中にバイクを押してって、エンジンをこっそりかけて走るだけだったな。周りはヤンキーばっかりだったけど、自分はそうなりたいと思わなかったし。
なんだか冷めてたんだよねぇ」

小学校高学年頃のことだったろうか。当時頻繁に放映されていた「風の谷のナウシカ」などの宮崎アニメを見て、植木さんはその世界観に強く引き込まれるようになった。繊細で柔らかな画風に見とれ、それに寄り添うように劇中を流れる久石譲の音楽に聴き惚れた。心にはいつしか、絵を、音楽を、やってみたいという想いが生まれるようになった。
そして、その想いは、中学生になっても途切れることはなかった。
バイクを乗り回しながらも、心はどこか、暴走行為から遠く離れた宮崎アニメの世界に惹かれ続けていたのだ。

「でも、高校に入って、夏休みにクビになったの。」と、植木さんは、あっけらかんと語る。
高校に進学した植木さんは、ある日、仲間たちと一緒に大きなケンカをした。間の悪いことに、煙草を吸って停学になっている最中のことだった。
そのケンカは学校に通報され、結果、総勢14名が退学処分となった。
植木さんは、そのうちのひとりだったのだ。

「親御さんは、びっくりしなかったんですか!?」と聞くと、
「うん、でも、2人はある意味俺のこと信じててくれたから」
という答えが返ってきて、逆に私のほうが驚かされてしまった。
ショップ兼アトリエにて ショップ兼アトリエにて
インタビュー:坂口直
バンドとの出会い
「その頃だったな、バンドを始めたのは」

高校を辞めた植木さんが、知り合いの美容室で働き始めたある日、 友人から「バンドをやらないか」との誘いがあった。
歌のうまかった植木さんは、ボーカルとして抜擢されたのだ。

面白そうだからと、ほんの軽い気持ちでOKしたが、 活動は徐々に本格的になり、いつしか彼らは東京進出を目指すようになった。

勤めていた美容室を辞めた植木さんは、それから約5年間、様々なアルバイトを経験しながら、東京に出るための資金を貯め続けた。
ファストフード店員、アパレルショップの販売員、ラーメン屋の店主、そして再びアパレル店員・・その内ファストフード店以外はすべて紹介やツテで入ったものだというから驚きだ。人付き合いは小さいころから得意だったという。たしかにそれは、現在の植木さんの、気さくさや話しやすさを目の前にすればうなずける。そして、その強みは彼の今後の人生にも活きつづける。

22歳になる頃、とうとう資金が溜まった。
植木さんは、東京へと進出した。
西荻窪へ
初めは、先に東京に出てきていたバンドメンバーの集まる下落合周辺に、部屋を借りた。
バイトと、練習と、ライブに明け暮れる毎日を過ごし、1年ほどが過ぎた、ある日のこと。
「実は俺、ホームレスになったことがあるんだよね」

ギターなどの大切な荷物を友人に預けて、公園や、公共施設などをさまよい歩いた。友人達の家に、日替わりで居候させてもらうときもあった。

ある時、映像の専門学生だった友人から、「自主製作の映画に出演してくれるなら家に居候してもいい」という条件が提示されると、植木さんは喜んでその条件を飲み、さっそく友人の住む西荻窪の街で、居候生活が始まった。
居候生活はその後ルームシェアに変わり、植木さんはめでたく3ヶ月に渡るホームレス生活からの脱却を遂げたのだった。

それが、その後十数年にわたる彼の西荻窪生活の始まりだった。
動き始めた歯車
「音楽をやめるつもりはなかったな。売れても売れなくても、関係なかった」

実際植木さんは、ほんの5年前、36歳になるまで、バンド活動を続けている。17歳のときに始めたから、19年間も活動していたことになる。その間にはデビューの話も出たほどだというから、人生の一大事業として、相当情熱を注いできたのだろう。
そんな彼に転機が訪れたのは、27歳のときだ。

その頃、溜まった貯金で、植木さんは西荻窪に古着店を開いた。
始めたお店が「古着店」だったことに、特に意味はなかった。
ビンテージ品の海外買い付けに行って生計を立てている友人がいたので、仕入れをお願いすることができたのだ。それで古着店に決めた。

自由な時間を作るのが目的だった。もちろん、バンドのためだ。
「5人でやってたから、時間を合わせるのが大変だったの。サラリーマンもいたしバイトもいたし学生もいたし。じゃあ俺店やって時間作ろうかなと思って」

しかし、植木さんが、バンドに代わる人生の一大事業となる、洋服作りを始めたのは、その古着店がきっかけだったのだ。
山小屋展示限定で制作したストールカラーのネルシャツ 山小屋展示限定で制作したストールカラーのネルシャツ
初めての服作り
いざ古着店を始めてみると、予想以上に女性のお客さんが多く来店した。
メンズの仕入れは順調だったが、レディースの仕入れはいまいち振るわず、慢性的にレディースの服が不足気味な状態が続いた。
「どうしようと思って。それで『作ろう』って思ったんだよね、単純に」
「単純に」と彼は言うけれど、服作りの技術を学んだこともなければ、パターンや縫製のことなんて何も分からなかった。

私は、植木さんのこういう部分に、恐れ入ってしまう。
服を作ったことがないのに、作ろうとする。しかも単なる趣味じゃなく、商売として、だ。

大多数の人は、「服を作って売ろう」と考えるとき、学校に通って、数年勉強して、さらに経験を積んで、資金を準備して・・・という道のりを真っ先に思い浮かべるだろう。そしてその長い年月や必要なお金のことを考えているうちに、二の足を踏んで、結局できなくなってしまうものだ。
でも、彼には全くそんなところがない。やると決めたらやってしまう。しかもその大抵が本当にできてしまうのだ。

植木さんはまず手始めに、古着店のお客さんでもある、服飾専門学校の生徒さんに教えを請うた。それから、パリコレのコレクションサンプルを作る会社に勤めている友人に、パターンのひきかたなどを教えてもらった。
「みんな、『教えて』って言ったら教えてくれたから。快く」と、植木さんはあっけらかんと語った。もちろんそれは、彼の人好きのする性格のおかげもあるだろう。しかしそれ以上に、私は彼の、友人や自分や運命を信じる力の強さを感じずにはいられなかった。

私がしきりに感心していると、植木さんは「やらなきゃ気が済まないだけなんだけどね」と照れくさそうに笑った。

レディースの服を作るようになってしばらくした頃、古着店に来ていたお客さんから、衣装作成の依頼が舞い込んだ。
さっそく引き受けて衣装を作り上げると、イベントでその衣装を見た化粧品会社から仕事のオファーが来た。するとその後も、いろいろな歌手やアーティストの人から続々と依頼がくるようになった。
ちなみに、それらは人の紹介などでやってきた仕事ばかりで、営業は一切していなかったという。

そしてその頃、本業の古着店はというと・・・・売り上げが落ち込んでいた。
人生を変えたアマルフィ
当時のことを植木さんは、「古着ももう駄目だなと思ってて、毎日ノイローゼ気味だったの。毎日3時ぐらいまでお店にいてレディース作ってて、で、朝あけるときにはもう吐き気がしてた」と語る。

店をたたむべきか否か悩んでいたある日、彼はふと、海外に行こうと思い立つ。
特に行きたい場所もなかったので、過去に一度行ったことのあるイタリアを再訪問することにした。「行けば何かがあるだろう」というざっくりとした概算のもと、植木さんは、有名な観光地であるアマルフィの街へと向かったのだった。

しかし、到着してみるとそこには・・・何もなかった。

ただ、恐ろしくすべての光景が美しかった。

豊かに表情を変える藍色の海。
存在感のある鮮やかな青空。
切り立った斜面に立ち並ぶ、白壁の家々。
そこで暮らす人々の、ささやかな暮らしぶり。

アマルフィの街は、世界で最も美しいと言われているアマルフィ海岸に面した、港町だ。 たしかにそこには、評判に違わぬ現実離れした景色が延々と広がっていた。

植木さんは、膨大な時間をひたすらその街で「過ごし」た。
海岸線をどこまでも歩いてみたり、山へ行ってみたり、うっかり人の家に入って行ったり・・・。

「何をしていたのか、詳しくは覚えてないんだよね・・観光らしいことはほとんどしてなかったから・・・。でも確か、多くの時間を海で過ごしていたと思う。一日中海にいて、ぼーっとしていたときもあったな」

波に反射する太陽の光に目を細め、
茜色に染められた夕暮れの街並みに息を呑み、
静かに闇を照らす灯台の光に心を奪われているうち、
植木さんのなかに、ぼんやりと作りたい服のイメージが浮かび上がってきた。

「その街は、まさしく自分の思い描いてた宮崎駿の世界そのものだったんだよね。
その中で、ゆっくりと流れる時間を過ごしてるうちに、すっごく自由な気持ちになれて。
それでふと、ここで暮らす人たちをイメージして洋服を作ってみたい、って思うようになったんだ」

そう、空中を見つめながら語った植木さんには、その虚空のスクリーンにアマルフィの人々の生活のワンシーンが見えていたに違いない。
山小屋展示限定で制作したニットワンピース 山小屋展示限定で制作したニットワンピース



後半につづく